新庄 剛志(しんじょう つよし、1972年1月28日 - )は、平成期(1990年代前半〜2000年代後半)のプロ野球選手。
福岡県福岡市出身(生まれは長崎県対馬市)、血液型A型。右投げ右打ち。現在の守備位置は外野手(中堅手)。
2004年から北海道日本ハムファイターズに所属し、同時に登録名を「SHINJO」と改め、2006年に引退した。
一般的な野球選手のイメージとはかけ離れた不思議な雰囲気と、独特な派手さをもったキャラクターの濃さで有名。
野球選手としては強肩と俊足を生かした球界屈指の守備力は脅威的だが、打撃についてはここ一番での勝負強さがあるものの「○打席ヒット無し」と調子の良し悪しも非常に大きく、打率は2割台中盤が定位置で(本人も、「自分はどこに行っても2割5分の打者」と言っている)、首位打者や本塁打王などの個人タイトルを獲得した事は一度も無い。
かつての指揮官野村克也には「打撃以外は一流」と評された。
10月26日に北海道日本ハムは中日ドラゴンズを日本シリーズで下し優勝したが、新庄の優勝への貢献度は非常に大きいといえる。
同チームの小笠原道大、フェルナンド・セギノール、稲葉篤紀ら中軸打者達と比べると打撃面では劣るが、その守備力やファンを惹きつけたパフォーマンス、「野球は楽しむもの」という考えをチームに浸透させたことなどは、チームだけでは無く、野球界全体への最大の貢献と言っても過言ではないだろう。
新庄剛:新庄剛志コマーシャル演出
オートバックスセブン
デサント
ローソン
日本ハム「モーニングサーブ」「ハムギフト」
大塚製薬「オロナミンC」(下記参照)
グンゼ
資生堂「シーブリーズ」
エイチ・アイ・エス(共演は、夏木マリと秋元康)
アオキインターナショナル「メンズプラザアオキ」
長谷工アーベスト「スターコート豊洲」
ダイドードリンコ「D-1」
ジレット
日本特殊陶業「NGKイリジウムプラグ」
デサント
ローソン
日本ハム「モーニングサーブ」「ハムギフト」
大塚製薬「オロナミンC」(下記参照)
グンゼ
資生堂「シーブリーズ」
エイチ・アイ・エス(共演は、夏木マリと秋元康)
アオキインターナショナル「メンズプラザアオキ」
長谷工アーベスト「スターコート豊洲」
ダイドードリンコ「D-1」
ジレット
日本特殊陶業「NGKイリジウムプラグ」
新庄剛:新庄剛志獲得タイトル
最多捕殺
3回 (1993、1997、1998年)
札幌ドームMVP
1回 (2004年)
パ・リーグオールスターMVP
1回 (2004年)
ベストナイン
3回 (1993年、2000年、2004年)
ゴールデングラブ賞
10回 (1993年、1994年、1996年〜2000年、2004年、2005年、2006年)
オールスター出場
7回 (1994年、1997年、1999年、2000年、2004年〜2006年)
3回 (1993、1997、1998年)
札幌ドームMVP
1回 (2004年)
パ・リーグオールスターMVP
1回 (2004年)
ベストナイン
3回 (1993年、2000年、2004年)
ゴールデングラブ賞
10回 (1993年、1994年、1996年〜2000年、2004年、2005年、2006年)
オールスター出場
7回 (1994年、1997年、1999年、2000年、2004年〜2006年)
新庄剛:新庄剛志の球歴
1989年 ドラフト5位で阪神タイガースに入団。背番号は63。
1992年 亀山努と共に「亀新フィーバー」を巻き起こし、チームの大躍進に貢献。
1993年 背番号を5に変更。
1995年 突然の引退宣言。当時の藤田平監督との確執が噂されたが、後日引退を撤回。
1997年 オールスターゲームでセ・リーグ応援団に応援をボイコットされる屈辱を味わう。
1999年 読売ジャイアンツ戦で槙原寛己投手から「敬遠球サヨナラ安打」を放つ。
2000年 FA宣言。また、女優の大河内志保と結婚。
2001年 アメリカメジャーリーグのニューヨーク・メッツに入団。背番号は阪神時代と同じ5。
2002年 サンフランシスコ・ジャイアンツに移籍。日本人初のワールドシリーズ出場達成。
2003年 ニューヨーク・メッツに復帰するが、打撃不振でマイナー落ち。日本球界に戻り、北海道日本ハムファイターズに入団。
登録名はSHINJO、背番号は1。
公式発表の前日、映画『バッドボーイズ2BAD』の特別試写会にて、非公式に観客に発表した。
2004年7月11日 オールスターゲーム第2戦(長野)でホームスチールを決めるなどの活躍により、MVPを受賞する。(オールスター寸前のペナントレースではお立ち台で「MVPは僕のものです!」と宣言した)
なお、お立ち台で「これからは、パ・リーグです」と当時球界再編問題で合併の危機にあったオリックス・ブルーウェーブ、大阪近鉄バファローズ、そして一リーグ制移行論議の渦中で消滅の可能性にあったパ・リーグのファンを喜ばせた。そのお立ち台で最後にいった言葉は、自身が出演していたオロナミンCのCMの決めゼリフ「元気ハツラツぅ?」であった。
2005年 パ・リーグ開幕戦(対ソフトバンク)での始球式にオロナミンCのCMで共演した上戸彩が登場したが、先頭打者のSHINJOはバットの代わりにオロナミンCを持って入り始球式を挙行。その直後、「元気ハツラツぅ?」「オフコース!!」と、上戸彩とCMと同じやりとりをした。
2005年6月5日 中日ドラゴンズ戦(ナゴヤドーム)で日米通算200号本塁打を記録。この記録を達成した日本人選手は松井秀喜(現ニューヨーク・ヤンキース)に次いで2人目である。
2006年4月18日 恩師の中村勝広監督率いるオリックス戦(東京ドーム)、この日の1本目の本塁打に「28年間思う存分野球を楽しんだぜ。
今年でユニホームを脱ぎます打法」と名付け、この日のヒーローインタビューで、突然の引退表明。この日を最後に打法命名を封印した。
2006年6月16日 広島戦(札幌ドーム)で、第1打席に日本通算200号本塁打を達成(投手:佐々岡真司)。
2006年9月15日 2007年夏の参院選への出馬を、自民党と民主党が要請していたことが判明。球団事務所は打診があったことを認めている。ちなみにその後新庄本人が断ったとのこと。
2006年9月27日 レギュラーシーズン最終戦のこの日限定で、背番号をプロ野球選手生活で最初に背負った63に変更。
チームがレギュラーシーズン一位通過を決めた試合終了後、引退セレモニーを行った。
1992年 亀山努と共に「亀新フィーバー」を巻き起こし、チームの大躍進に貢献。
1993年 背番号を5に変更。
1995年 突然の引退宣言。当時の藤田平監督との確執が噂されたが、後日引退を撤回。
1997年 オールスターゲームでセ・リーグ応援団に応援をボイコットされる屈辱を味わう。
1999年 読売ジャイアンツ戦で槙原寛己投手から「敬遠球サヨナラ安打」を放つ。
2000年 FA宣言。また、女優の大河内志保と結婚。
2001年 アメリカメジャーリーグのニューヨーク・メッツに入団。背番号は阪神時代と同じ5。
2002年 サンフランシスコ・ジャイアンツに移籍。日本人初のワールドシリーズ出場達成。
2003年 ニューヨーク・メッツに復帰するが、打撃不振でマイナー落ち。日本球界に戻り、北海道日本ハムファイターズに入団。
登録名はSHINJO、背番号は1。
公式発表の前日、映画『バッドボーイズ2BAD』の特別試写会にて、非公式に観客に発表した。
2004年7月11日 オールスターゲーム第2戦(長野)でホームスチールを決めるなどの活躍により、MVPを受賞する。(オールスター寸前のペナントレースではお立ち台で「MVPは僕のものです!」と宣言した)
なお、お立ち台で「これからは、パ・リーグです」と当時球界再編問題で合併の危機にあったオリックス・ブルーウェーブ、大阪近鉄バファローズ、そして一リーグ制移行論議の渦中で消滅の可能性にあったパ・リーグのファンを喜ばせた。そのお立ち台で最後にいった言葉は、自身が出演していたオロナミンCのCMの決めゼリフ「元気ハツラツぅ?」であった。
2005年 パ・リーグ開幕戦(対ソフトバンク)での始球式にオロナミンCのCMで共演した上戸彩が登場したが、先頭打者のSHINJOはバットの代わりにオロナミンCを持って入り始球式を挙行。その直後、「元気ハツラツぅ?」「オフコース!!」と、上戸彩とCMと同じやりとりをした。
2005年6月5日 中日ドラゴンズ戦(ナゴヤドーム)で日米通算200号本塁打を記録。この記録を達成した日本人選手は松井秀喜(現ニューヨーク・ヤンキース)に次いで2人目である。
2006年4月18日 恩師の中村勝広監督率いるオリックス戦(東京ドーム)、この日の1本目の本塁打に「28年間思う存分野球を楽しんだぜ。
今年でユニホームを脱ぎます打法」と名付け、この日のヒーローインタビューで、突然の引退表明。この日を最後に打法命名を封印した。
2006年6月16日 広島戦(札幌ドーム)で、第1打席に日本通算200号本塁打を達成(投手:佐々岡真司)。
2006年9月15日 2007年夏の参院選への出馬を、自民党と民主党が要請していたことが判明。球団事務所は打診があったことを認めている。ちなみにその後新庄本人が断ったとのこと。
2006年9月27日 レギュラーシーズン最終戦のこの日限定で、背番号をプロ野球選手生活で最初に背負った63に変更。
チームがレギュラーシーズン一位通過を決めた試合終了後、引退セレモニーを行った。
新庄剛:新庄剛志の球歴
球歴・入団経緯 西日本短期大学附属高等学校−阪神タイガース(1990年〜2000年)−ニューヨーク・メッツ(2001年)−サンフランシスコ・ジャイアンツ(2002年)−メッツ(2003年)−北海道日本ハムファイターズ(2004年〜2006年)
ドラフト年度・順位 1989年(5位)
ドラフト年度・順位 1989年(5位)
新庄剛:新庄剛志の略歴
球歴・入団経緯 西日本短期大学附属高等学校−阪神タイガース(1990年〜2000年)−ニューヨーク・メッツ(2001年)−サンフランシスコ・ジャイアンツ(2002年)−メッツ(2003年)−北海道日本ハムファイターズ(2004年〜2006年)
ドラフト年度・順位 1989年(5位)
ドラフト年度・順位 1989年(5位)
